140227
「この本を読んだ」と公言したくなかったというのが本心。
それは、多分、僕が死刑は廃止した方がよいという考えだったのが、最近その考えに揺らぎが生じていることが原因にあると思う。この3年間で自分に家族が増えた。これまで向き合ってこなかった被害者遺族の心について、「もし自分だったら」と考え始めてしまったのが、感情が揺れた理由だ。

この本を読みながら、被害者遺族への共感に対してバランスをとろうと、自分が加害者の家族の立場になったらと想像した。一生をかけて悔い改めて欲しいと考えるだろうか、死んで詫びるべきと考えるだろうか。被害者遺族の立場、加害者の家族の立場、被害者の立場、加害者の立場、どの立場に立とうとしても、それは想像でしかなく、自分は当事者ではないことを思い知らされる。同時に、僕は死刑のことをよく知らない。どのような人が関わって、どのように執行されるのか、プロセスから死刑の根拠となる刑法の条文まで知らない。死刑廃止論者気分でいたけれど、自分は死刑について何一つしらなかったことを思い知らされる。

途中まで読んでなかなか読み進められなかったけど、後半部分を今日の帰り道で読みきった。iPodで適当に曲を選んで、電車でページをめくった。



(iTunesに入れた記憶がないアルバムだった・・・)

この本に登場するのは、死刑に関わる当事者たちだ。そこに、当事者でない森達也さんがインタビューをする。死刑事件を担当する安田弁護士から始まり、文庫版に新たに収められた光市母子殺害事件の被告まで続く。森さんのノンフィクションには、余計な描写が入り込む。切れかけた蛍光灯とか、喫茶店でかかる音楽とか。そして、その余計な描写に紛れて、森さん自身がカメラに写り込んでしまっている。カメラに写り込んでいる森さんは、気がついたら面倒な問題に巻き込まれてしまった中年刑事のようにみえる。森さんが作中の人物になることで、読者の我々もタバコ臭い喫茶店(壁もヤニで汚れている)に同席している気分になる。

1冊の中で、森さんは徐々に当事者に近づいていった。そして、その結果、森さんは死刑囚を殺したくないという結論にたどり着いた。「入り口も途中も近いのに、出口だけがまったく違う」と書かれているジャーナリストの藤井誠二さんは、被害者遺族への取材を通じて当事者に近づき、死刑存置論の立場になる。

この本には、逡巡という言葉が出てくる。しりぞいて、めぐる。ためらうという意味で、英語ではhesitation(でも、この言葉には単純なためらいやhesitationに、異なるニュアンスが重ねられているように感じる)。森さんは多くのインタビューを経て逡巡を終える(ように見える)。そして、読者に対して「僕は彼らに会った。そしてあなたはこの本を読んだ。だからあなたの中に、何かが生まれることを願っている」と話す。それは、必ずしも、森さんのこの本の中の到達点のように逡巡の終わりを意味してない。「何か」は「何か」だ。

そう結論づけたのは、本を読んだ後、結局僕はまだ逡巡していることを自覚したからだ。でも、読前に抱いていた迷いと違う。自分は、この本に登場する当事者たちの言葉を読んでいる。

2014年02月27日    book&music

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