講義の準備が終わったらもう7時過ぎで、地元の駅についたのは9時半ごろ。改札をでて、バス停に向かう途中で外国の若い女の子が近寄ってきて、紙を僕に見せてきた。紙には、丁寧な手書きの日本語で「コロナの影響でアルバイトができず、お金に困っています。よければお菓子を買ってください」というようなことが書いてあった。カタコトの英語で話してみたところ、専門学校の学生でアルバイトができず、生活が苦しいそうである。少し話をして、お菓子をひと袋買うことにした。1000円。中身は、外国の美味しそうなチョコレートなどが入っていた。「Have a good study」のようなことを言って別れて、バスに乗った。
バスの中で考えたのは、お菓子の利益率のことだった。もともと、輸入菓子なので安くないということは、そもそも彼女の利益になっていないのではないだろうか。バッグにはあと3袋くらい入っていたけど、売り切るのにどれくらいの時間がかかる? 売り切ってもいくら儲かる? それで生活の足しに本当になるのだろうか? お菓子は実家からの仕送りだったりするのだろうか? と色々考える。バスが目的地に着くあたりでは、自分がお菓子を買うよりも、彼女にもっといいアドバイスができたのではないだろうかと考えていた。「Have a good study」と別れた自分は、相当間抜けな奴に思えた。
ひとり、知らない土地で勉強するのは心細いだろうな。また同じ時間帯に駅を降りるとき、彼女ともう一度話せたらと思う。それ以上に、彼女自身が、わざわざあそこに立つ必要がなくなっていればいいが。
2020年3月20日に、最初の書籍になる『「副業」の研究−多様性がもたらす影響と可能性−』が刊行されました。最初に副業の論文に取り組んだのが2014年だったので、6年がかりの研究の成果が掲載されています。この本は、副業の現状を紹介する、だれが副業を持つのか? 副業を持つことで何が変わるのか? という3つのことを、現在研究目的で利用可能な統計・調査を使って考えています。 統計・調査で補えない一人一人の事例は、コラムの中でヒアリング調査の結果から紹介しています。
統計をみることでわかってきたことは、とにかく、副業は多様であるということでした。生活のためにもたれる副業、スキルアップを目的に持つ副業、趣味を活かした副業などなど。特に政策として副業を推進するときには、その違いを意識することが大切かと思います。パートタイムからフルタイムへの転換など、本業の待遇が充実することを望む場合、「副業を持てばいい」という考え方は、行き過ぎた自助を求めることになると思います。この問題について、考える材料が提供できればよいと思っています。
「稼げる副業」といった副業のハウツー本かと思われて購入されてしまった方がいたら、内容に満足いかないかもしれませんが(ということを筆者は恐れております)、そのような問題意識についても、考える材料は提供できていると思います。「働き方改革」や新型コロナウィルスによる副業を持つ環境の変化は、私たちの働き方をある程度自由にするものと思います。その中で、本書が少しでも読者の役に立てばよいと願っております。
私は固く信じているが、人の中には、駄目な人は一人もいないものである。人と人との相違は、その人が自分の好い芽をひらかせるような気でいるか、或いは摘みとって了うような気でいるか、その違いである。誰にでも、その人の持っている芽、と言うものがある。その芽を太陽のよく当たるところへ出して、ときどき水をやり、肥やしもやっているか、或いはそこら中へおっぽり出して、まるで構わないでいるかで、勝負は決まる。
芽は手当て次第でどんどん伸びる。伸びない、などとは夢にも思ってはならない。伸びる、伸びる、どんどん伸びる、人に笑われても構わない。そう信じて書く人は書ける。私の一番嫌いな人は、「あたし、駄目なんです。生れつき、文章なんて書けないんです。」と言う人である。なぜ、あなたは駄目なんですか。ひょっとしたら、そんなことを言ってる人自身も、ほんとうには自分が駄目だなぞとは、思ってはいないのかも知れない。ただ、人前を作って、そう言っているだけなのかも知れない。それだのに、これは恐しいことであるが、つい、今しがた、その気もなくて言って了った自分の言葉の、「あたし、駄目なんです。生れつき、文章なんて書けないんです。」と言った自分の言葉が自分の耳に反射して、ほんとうに、自分のことを自分で駄目だと思うようになるのではないだろうか。嘘にでも冗談にでも、自分は駄目だなぞと言ってはならない。自分は書ける、とそう言い切ることである。その言葉の反射によって、自分でも思わず、自分は書ける、と思い込むようになる。謙遜は美徳ではなくて悪徳である。
もし、あなたに友だちがあって、「駄目ねえ。あなたは文章を書くのが苦手なのよね、」などと言う人があったら、そう言う人の前から、あなたは飛びのくことである。嘘にでも冗談にでも、「あなたは素敵ねえ、こんなに巧く書けるなんて、」と言う人のそばへ、へばりつくことである。人生のことは凡て、言葉の暗示である。誰でも、人にほめられると嬉しい。何故か。自分は書けない、と思うよりも、書ける、と思う方が気持が好いからである。それが自然だからである。伸びるのが自然だからである。
でも、しかし、他人の言葉の暗示によって、自分の好い芽に養分をやる方法は、二義的である。出来ることなら、他人の言葉の暗示よりも何よりも、自分自身が自分に与える暗示によって、芽を伸ばして行きたいものである。自分は書ける。そう思い込む、その思い込み方の強さは、そのまま、端的に、自分の芽を伸ばすからである。
言いかえるとそれは、自信がある、と言う状態のことだからである。私は書ける。そう信じ込んでいる状態のことだからである。何が強いと言って、書ける、と思い込むより強いことはないからである。